昭和40年02月22日 朝の御理解
昨晩でした。テレビで何んとかという噺家が、所謂演技しておるんですね。どうせ初めの間は向こうの方からこっちの方へ歩いて来ておるとこう思うておった。所がよく前身をその高座といいますかね、あそこが画面に出てまいりました。やっぱり座布団の上に座っておるんですよ。いかにも座布団の上に座っておりながら、いかにも歩いておるように見えるのですね。演技ですね。
向こうの方から丁度歩いて来ておるように見える。あれはもう決して動きません。座ったきりで様々な演技をするんですね。お噺家っていうのは。お芝居なんかでも例えば。舞台の上を走っておる格好を致します。いかにも一生懸命大股で走っておるようだけれども、同じ所ばかりでこうやってやっとる。走っておるようであって走っていない。歩いて来ておるようであって歩いていない。
お互い信心の道を歩いておるようであって歩いていないという、事実を知らなければいけません。いかにも朝参りどもさせて頂いて、一生懸命信心を走っているかのように見えているけれども、実は同じ所ばかりを大股で、こうお芝居のそれじゃないですけれども、走っておるように見えておるだけ。所謂走っておる積り、歩いておる積りではおかげにいつまでも到達致しません。私思うのです。
信心の道を歩かせて頂いておればですね、必ず変わった所の所謂まだ目的には着いていないでも、変わった景色を眺めていくというか、自分の心の上に段々自分の心の中に変化してゆくと申しますか、自分の心が変わってゆくというか、その楽しみやら喜びやらがないなら、貴方の信心は歩いた積りでおるとであり、走った積りであるのだと言う事になるのじゃないでしょうか。それでは何時まで経ってもおかげは受けられません。
昨夜の御祈念の後でした、堤さんの所の御長男のきよしさんが、毎晩参って見えるんです。所が先生2、3日御無礼致しましたらやっぱりいけませんとこう。日々御理解頂いておらなければ駄目だと、毎日お参りさせて頂いておる時には問題では無い事が問題に見えてくる。腹の立たない事が腹が立ってくる。どうでも先生これはきお徳を頂下なきゃいけません。信心させて頂いて、先生あの信心をする者は肉眼をおいて心眼を開けと仰いますが、あの心眼を開くというのはどう言う様な事で御座いましょうか。
というてここでお伺いされるんです。そして私も心眼が開きたいとこう言われる。そしてなぁ心眼を開くというてから一辺にゃ開くわけにゃいかん。 成程ここで御祈念中に例えば御心眼を頂いたというですね、それも御心眼。例えば様々な信心させて頂いたら、よう不思議な事がある。いわゆる心の上にいわば心眼というよりも霊眼といった方がいいかも知れませんねぇ。所謂霊徳の現れなんです。だからお願いしておりますと神様はそれに答えて下さる様にです、いろんなお知らせを下さる。
そのまぁ前提のように御神夢と言うのを下さる。もうはっり御理解である事が分かるように御神夢を下さる。2、3日前北野の青木さんが毎朝参って来るんですけれども、今朝方先生お夢を頂きました。というのはこういう大きなその洋食皿の大きな様な鉢なんです。浅いそれにね並々とお醤油がついである。お夢の中でねそしてその鉢についであるお醤油に並々についであるお醤油をです、自分の顔をそのこう持ってって丁度水鏡をしておる様に、醤油に自分の顔姿を写しておる所で目が覚めたお夢だった。
ただのお夢ではないですね。やっぱりこれは御神夢という訳です。ですからこれを御心眼にそう言う様な事を頂く場合もある。けれども矢張り一つの霊夢であり、又は霊眼であると私は思うです。皆さんこう言う様な事はもう余談ですけれどもお分かりになるでしょう。椛目で御理解を頂けば。青木さんがある時、最近大変心配になる事がある訳なんですね。その事を心配させて頂いて、お取次を頂いて又夜の御祈念の時もちょっとそのお願いして休ませて頂かれたら、そういうお知らせを頂かれた。
醤油のお知らせは苦労という。現在心配をしておる問題。現在苦労しておる問題。それはそのままそれが貴方の鏡だという訳なんです。だからこの例えば苦労こそです、私の姿である。その苦労の醤油に、水鏡にするように自分の姿を写し出した所がです。頂いておる教えとは似ても似つかない姿が、これに写っておるとするならばです、自分の心の姿が、これではおかげの受けられん筈だと改まらしてもらい、それを修行として受けて行く所に、あの醤油の別名を紫と申しますね。
お寿司店さんなんかに行きますと醤油とは言いません。紫をくれとこう紫と言うのは、ここでは安心と言う事。どういう心配事どういう悩みがあってもそういう頂き方の中には心配はいらんぞ安心ぞとこう、神様がお知らせ下さったような気が致します。その気になられたら、本当におかげになってきております。その問題が本当にそうだったと、この心配こそがこの実体は私の姿であったと言う事が分かってきた。
信心させて頂いておればです、霊夢とか霊眼ではないですけれども、教祖の仰る「信心する者は肉眼をおいて心眼を開けよ」とこう仰る。その心眼が段々開けて来る所の楽しみという物がね、なからなきゃいけません。
それを私はこういうふうに申しました。とにかくね一次元の世界、二次元の世界、三次元の世界。例えばそう云う世界がある。普通人間は一次元の世界に住んでおる。所が信心させて頂くと段々二次元の世界に住み替える事が出来る、そこには物の見方、考え方頂き方という物が全然変わった形に見えて来るのである。信心させて頂くそれが肉眼をおいて心眼を開いて行くのだと、今まで難儀とばかり思うておったらそれは神愛の現れであったと、まぁ簡単に表現するならばそうなんです。
今まではこれは病気病気と思うておったが、これは病気じゃない。それは心の実体の影であり、醤油に写し出されたところの、自分の姿であり、自分の家の姿であると。これは家の巡りであり、自分の身の巡りであると分かる。病気じゃない、難儀じゃない、そしてそれを、ぎりぎり分からして頂いたら、神愛の現れであったと言う事が分かる。全然見方が違うでしょう。
だから一次元に住んでおる人は情けないとか、痛い痒と言って泣きよるけれども、二次元に住んでおる人は、勿体無い事である有難い事であると、相済まん事ではあるというて有難た涙にいわばくれれると言う事になってくる。大変な違いこれはあんたが言う様に、肉眼をおいて心眼を開かなければね、いわば腹を立ててはならん所に腹を立てるもんね、というて話した事でした。そういうふうにです皆さんどうでしょうか。
肉眼をおいて心眼を開いてゆきよる自分の姿というものがです、日常の様々な問題の中に家庭生活の中に、そう言う様なおかげが心の上に頂けておるだろうか、信心させて頂いておればです、まず自分の心に喜びが頂け安らぎが頂け、本当に有り難い勿体ないはぁこの調子で信心が進められてゆくならば自分も有り難くなれるぞ、お徳が頂けるぞ巡りのお取り払いも頂く事が出来るぞと。
所謂一次元の世界から二次元の世界に住み替えて行く様なおかげが、肉眼をおいて心眼を開いてゆく事が出来るぞと言う様な、私は楽しみの中に信心が進められておるかどうか、座った積りではいけません。歩いておるような積りではいけません。役者が舞台で走っておる。それは走っておるように見せるだけ。噺家が座布団の上でです、いかにも歩いておるように見えましてもです、それは座布団の上だけ。ね、
どうでしょうか皆さんの場合はお参りをしておられる。信心をしておられる。信心をしておる積りだけ。それではいつまでたってもおかげは受けられん。いやそれはおかげと言う事はですね、只今私が申しますようなおかげは受けられん。毎日日参をして来る方、もう長い信心です。朝の御祈念に参って来ておりましたが、最近は朝の御祈念の後丁度済んでから、丁度一時間ぐらいした時に参って見える。
難儀な問題があるのです。お商売をしておられます。この頃もう次々とその不如意の事ばかりが起こって、そのおかげにならん。この頃少し信心にいうなら、自信を失いかけてきた。それでもやっぱり参らなければ気持ちが悪い。やっぱり参っとかなければ愈々もう淋しい。だから、それかというてそういう難儀な問題を控えておりながら、朝が中々起きれないこの人は。
そんなタイプガありますよもんねぇ、お話はよう頂かんのです。頂いておっても分かったやら分からんような顔をしておる。それは皆さんの中でもそうですよ。分かったやら分からんような顔をしておる人があるかというて、いちいち合点してはぁ分かりましたと言やぁ分かるようにして頂いておる人もありますよ。けれどもそれは分かっただけでは何にもならんでしょう。所謂分かった積りでおるだけの事。
今日私が申しますように、信心を進めさせて頂けば信心の道を歩かせて頂けばです、歩いていけば行くほどに進めて行けば行く程に自分の心に安らぎが頂け、今までの物の見方考え方というものが変わってきて、どうした腹の立つ事じゃろうかと思よった事が神様にお礼を申し上げねばならん事であったり、自分がお詫びをしなければならない事であったと言う様に、肉眼から心眼が開けてゆくその課程にある時です、信心は愈々楽しいものになり有難いものに成って来るのですよ。
今私が申しますその方もそういうタイプの方。毎朝例えばお参りをして来ても御理解を頂いておっても、しっかり頂きなさりよるけれどもです、この人はいっちょん分かりよりなさらんとじゃろうと言う様な感じのするタイプの方なんです。最近はそんな訳ですから、もう、少し自信を失いかけているんですよ。それでも参らにゃどうか淋しいですね。で、参って毎朝苦しい事をお取次願われるんです。
それで私あんたお参りして来るなら、もうひと頑張り頑張らして頂いて、一番バスで参ってくりゃ、御理解だけぐらい頂けるじゃないか。ね、いやそれでも間に合わなかったら、皆さんがあそこでその頃丁度、5人6人集まってテープを聞かせて貰いよる。朝の御理解をだからそこで、自分も頂く気持ちになぜならんのかと、一言でも御教えを頂かせてもろうて、自分の心を開いてゆかなければ、おかげにはならんよと私は言いたい気がするんです。毎朝参って来る。
ひと頑張り頑張らんか朝の御祈念に参ってこな、御理解頂かんな間に合わなかったらテープでもよいから今朝の御理解はどういう御理解じゃっただろうか、その御理解の中に貴方がおかげを頂く、例えば基にもなる様な御理解が、心の開ける様なお話があるやら分からん。そういうふうな求める心求道心がなからなければおかげは受けられんぞと、私はここからそう思うんですよ。所が神様はですね、それでよいのだと仰る。
それで良いのだと分かろうと務めない者には分からせようと務めさせても仕方がない。云う事を聞かぬ子が仕方がない。だからそれは仕方がないとしてですたい、私御心眼頂くのにその人の手を握ってです、そう心に感じましたら握ってきゅっと私の所に引っ張ろうとするところを頂いたんです。私はあんまり手首をぎゅっと握って引っ張りましたもんですから、手首がですね、あんまり強く握られたもんですから、力の強い人に握られたもんですから、手のこの先がしびれてしまってとこう。はぁ成程これでは、ね、
おかげはこの人は握る事は出来ないと思ったです。ははぁ成程だなぁと私思うんですね。ですからこれが分からんにゃおかげは頂けんと言う事はない、おかげの場合は。分からんでもね。それは生き生きしたお参りではなくても、返ってそう言う意欲の無い人に私が無理にいうたら、返って手をしびらかしてしもうておかげをよう握られんような結果になるから。後から所謂お前が思うておる事、言うておる事は時節を待っておかげを受けたがよかろう、可愛いものじゃである。
後から一生懸命祈ってやれ。お取次を頂いておかげを頂いた。体験を頂くと心が晴れ晴れする。晴れ晴れとしたらそこに教えを又頂こうとする気持も起こってくるように、お繰り合わせを願え、本当のお道の信奉者としての信心生活が出来るような、信心の楽しさ有難さが分かってくるようなおかげになる事を、後から祈れ、影の祈念をしろと、そういうふうに私は感じたんです。ですから毎日毎日そう云うふうでいうなら、毎日銀行に金を借りに行くごと気持ちで参ってきよるとです。ね、
信心には大体は生き生きしたもの、いわば銀行に金を預けに行くごとある気持ちで喜び、生き生きした喜びをもってお参りをしてこなければです、今日私が言う様な肉眼をおいて心眼を開かせて頂くような、一次元の世界から二次元の世界に住み替えて行く様な、自分の心に安らぎが生まれ、心の中に喜びが頂けると言う様な、おかげにはなって来ないのです。ね、けれども場合にはそういう方もあると言う事。
20日の日がもうギリギリの期限でした。もう本当に今度それが出来なかったらもう店を解散しなければならないと言う所までいっとった。やっぱり毎日参って来る。で20日の日に参って来てからです「もう先生、今日はもうギリギリまるっきり滑り込みの様にしておかげを頂いた」とこういう、からというてですね、もう本当におかげの実感というものは心の中にわいてこないですね。
やっぱりなら21日も昨日も矢張りお参りはして来ておるのですけれども、というてその心が生き生きとしてこないのですね。何故かというとですね、ここは一山乗り越えたことは乗り越えたばってん、次には又次の一山があると言う様な事がもう心を暗くしておるようですね。ですからこれ見てご覧なさい、信心の本当に教えが自分の身について、歩いておるつもりじゃない、走っておるつもりじゃない、本当に歩いておるんだ、ほんとに走っておるんだという。
信心をさせてもろうて心に生き生きとした喜びがです、信心の楽しみが育ってゆく信心をさせてもらわなければ、人間の苦労というのは尽きないのですから、いつも暗い思いで参ってお取次頂きゃお蔭は頂くこと頂くばってんというて、というていつも安心しきったきもちでそれに取り組むことが出来ない。いやおかげを頂ける事は間違いないという確信をもって進む事が出来ない。
只お蔭を頂いてゆくだけという信心では余りにもつまらんでしょう。どういう問題に直面しましてもです、その問題そのものをです、青木さんのその御神夢じゃないですけれども、お醤油で水鏡をするような気持ち、その苦労そのものが自分の姿であると言う様なお蔭を頂けば、紫じゃと仰った。紫と言う事は安心、醤油は紫とこういう。そういうお知らせを頂いてです、そういう取り組み方なんです。
してみると、その例えば苦労のたんびに楽しみが頂けるでしょうが。そうでしょう、なにか問題のたんびに、はぁこれで又信心が飛躍して行く事が出来る。今まで知らなかった世界に、いわば本当に歩いておれば走っておればです、新しい景色がずっと見えてゆかれるように、又今まで自分の知らなかった信心の世界が覗くことが出来ると言う事。一次元から二次元だけじゃない、三次元の世界も四次元の世界にもです。
心が飛躍していく所の喜び、楽しみとそういうおかげをです、皆さん目指してもらわなければ、本当云うたら、椛目通いの値打ちはないでしょうが。定期券を買うて毎日お参りをして来る。大体その今私が申しました方は、実に喜良な方、気の小さい方だから、いくら気が小さくともです、信心をさせて頂きゃ信心の度胸も出来る。この方は確かに、不思議にですおかげだけはよう頂きますね。
それは何とはなしに、その良い物を持っておる善良なんです。心が。汚いものを持たんです。けども信心の上においては、そうした信心を分かると言う事においては、そうした迫力に乏しい方です。だからそういう信者氏子の場合はです、ここはこうしてこうしなければお蔭は受けられんぞと切にです、私手を引っ張る様にして私引っ張って行ってもです、かえって手をしびらかせて。
その現在その人が願っておるおかげすらよう頂けないような事にもなると言う所に、取次者の難しさを感じたんですね。私はですからそういう意味合いにおいてのおかげではなくてです、今日私が申しましたような、本当に信心の道を歩かせて頂いておると言う事。歩かせて頂いておるならば、目的に向かって一歩一歩近付いておると云う楽しみと云うものをです、心に感じられる信心を頂かなければいけないと言う事です。
おかげ頂きました。